紙ヒコーキと心中。

まいぺーすでのんびり屋。此処は、誰にも告げることの出来ぬ思いをブチ撒ける事に特化した掃き溜めのような場所。ですから、ミてもなぁんにも面白くありませんよ。…ああ、間違っても掃き溜めに鶴なんていませんので。というか鶴は逃げました。きっともう、戻ってこないでしょう。
まいぺーすでのんびり屋。






此処は、誰にも告げることの出来ぬ思いをブチ撒ける事に特化した掃き溜めのような場所。
ですから、ミてもなぁんにも面白くありませんよ。
…ああ、間違っても掃き溜めに鶴なんていませんので。というか鶴は逃げました。


きっともう、戻ってこないでしょう。

人を殺してしまった

夢をみた。


私の記憶において、同級生や友人という存在が大きかったのは、小学校を卒業するまで。
これは中学を1年(実際は1学期だったかもしれない)も行かず、不登校の後に登校拒否、時々、相談室に登校したりしていたので当然といえば当然だ。
兎に角、入学してから上の状態に至るまでが早かった。
慣れない環境に適応しようとして出来ず、元々居たようで実際は居なかった友達と呼べるような存在はクラス分けでいなくなり、同じ学校から進学した子達とは話しこそはするものの、他のその学校がある地区から進学した子達と負けず劣らずのグループを作っていて入れたものじゃなかった。今思い出してみても、あれは入れないし、これは今だから言えるが入りたくもない。

短かった中学生活の中で、イジメらしいイジメはなかったような気がする。あった、と言えば…とある教科のテストでカンニング容疑をかけられた時ぐらいか。
テストを受けた席順は覚えていないけれど、カンニングをしたような記憶もない。というか、その、私が自分のカンニングをして良い点を取ったと言い張った子との距離はカンニングを出来るような位置じゃなかった気がする。
それにまず、私はその教科が好きだった。だから一生懸命、問題が解るのが嬉しくて、解いて提出したというのに。
丸付けをされたテストが返ってきて、それを見た私は嬉しかった。ちゃんと合っている。良かった、と。
それなのに、私の点が良いと判った途端、カンニングしたとはどういうことか。もし私がその子のカンニングをしたというなら、何故その子は私より良い点を取れていないのか?おかしいでしょうが。
担任も担任だ。碌な対処もせず、私は傷ついた。その後、結局カンニングの件がどうなったのかは憶えていないが、これだけは言いたい。
私は無実だ。カンニングなどは一切していない。

担任で思い出した。私はどうも男性の担任が苦手だった。だった、というか今も苦手だ。
初めて担任が男性になったのは、小学4年生の頃。別にこれといったこともなく(あったら大問題だが)、普通だったような気がする。が、友達間のイジメはあった。イジメに関しては小学校を卒業するまであった。あとは、私がイジメられる側でちょっぴり不登校になりかけてたこと。イジメは、イジメる側にもなったし、イジメられる側にもなった。その後はほぼ中立だった。私の中では。周りにどう見えてたのかは知らないが、私はイジメる側でも、イジメられる側でもなかった。
色んな話を聞くと、うちの学校でのイジメはそんなに酷いものじゃなかったらしい。そりゃ、無視なんかはあったけど、ニュースで聞くような酷いのはなかった。だから多分、巷で聞くようなイジメとは程遠かったんだろうと思う。平和だった。
その中でも記憶にあるのは4年〜6年。その前はよく憶えていないが、担任に関しては記憶に残っているのが不思議。

入学〜3年生、女性担任。優しかったし楽しかった。
4年、初の男性担任。普通に楽しかったと思う。学校に行きたくない症候群が顔を出す。
5年、また男性担任。初めの頃は楽しかった気もする。セクハラ。問題になり担任を外される。担任変更、女性担任。誰か憶えていない。打って変わって楽しかったが病気の為、また代わる。臨時の先生。優しかった。好きだった。この先生とは、暫く文通をした。今はどうしているのか知らない。ちょっぴり不登校+登校拒否になる。
6年、女性担任。少し苦手だった。優しかった気もするし、厳しかった気もする。この頃、また不登校+登校拒否。それでも暫く保健室通いをした。5年の元担任と階段で会い目が合っても何事もなかったかのようにすれ違う。気まずい。というかなんでまだこの学校にいるのかという疑問の方が大きかった。
この頃の精神状態は後述する中学に比べれば酷くなかった。

4年〜6年共通、保健室の先生。優しかった、大好きだった。喧嘩もしたし、色んなことをした。私の中で1番の先生。年賀状を毎年書く数少ない人。

小学校時代まとめ(4年〜6年)。
脱走癖があった。その度にどういうルートで帰れば(=脱走すれば)見つからないかを考えていた。そして帰る度に母を激怒させていた。因みに、1度だけ私が居なくなったのを知った保健の先生の捜索(この時の私は暫く学校に潜伏していた)により見つかる。これが初めての失敗だった。あとは、6年の時の運動会ですーっといなくなり、隠れていたのを見つかりこっぴどく怒られたと同時に酷く心配された。怖かったと同時に吃驚した。その時から少し円くなる。6年の何時からだったか、不登校+登校拒否がなくなり、それから卒業まで、修学旅行も行ったし、勿論、卒業式だって出た。中学に上がっても、時々、遊びに通った。
そんなこんなで、私の小学生時代は終わった。

…ところで、男性担任が女児児童に抱きつくのは、やっぱり、おかしかったんですかね?
危機感なかったし面にも出さなかったけど、嫌だったから言ったら問題になったわけだから、おかしかったんだよな…。多分。

中学校は、後述するとは書いたものの、はっきり言って、そんなに書くことがない。なんせ、ほとんど通ってない=思い出がないのだから。

中学入学〜?、入学は普通。何事もなく。それなりに楽しかった。おかしくなり始めたのはいつからだったか。一部の2年生の態度が有り得なかった。私より少し早く生まれただけなのに威張っちゃって、敬語の話し方がなってないだとかいちゃもんつけてきたりして(今思うに、あの人達は1年の時に同じことを言われたんだろう)、完璧に目を付けられた。それでも救いだったのが、幼稚園から一緒で同じ学校から進学した腐れ縁とも言えるひとつ上(要するに2年)の友達が「気にしなくても良いよ」と言ってくれたこと。あれがいるのといないとじゃあ、かなり違ったように思う。それとは別に初めて知り合った3年生の先輩(男性)が優しかったのを憶えている。良く声をかけられたり、頭を撫でられたり。撫でられるのはなんか気持ち良くて好きだった。初めの出会いはどこだったんだろう。廊下?相談室?憶えていないけれど、確か私が相談室通いだった時だと思う。初めは名前を間違えられちゃって、呼ばれる度に訂正してた。相談室が溜まり場だったんだろうな、と思う。他にも数人、休憩時間になれば自然と集まっていたあそこは心地良かった。
相談室には併設するようにカウンセラー室があって、何度か受けた。相談室の先生が出張などで留守にする時はカウンセラー室に避難してたりもした。カウンセラー室の先生は決まった日しか来なかったから避難するにはもってこいだった。だって保健室は1時間という制約付きだったから特に。
あの学校には怖い先生が多かった。一見すると、ヤクザみたいな先生とか。不満不平はたらたらだった。
トイレ掃除を張り切ってよくやった。褒められるのが嬉しかったというのもあったが、みんなあまりやりたがらないトイレ掃除をやり終えると、気分が清々しかった。
ちょっと変わってたのかも。
体育祭は、練習は嫌々ながらも出ていたが、途中から仮病を使って見学。が、その仮病が本当になり病院へ。精神的なことからくる喘息と診断される。ある日、保健室から見学していてトイレに行きたくなり行く。お腹を見ると小さな水疱がポツポツ。保健室へ戻り、それを先生に告げると、お腹を見せてと言われたので見せる。ちょっと深刻そうな顔だった。この時、私には水疱がなんなのか分かっていた。そして先生が家へ連絡を入れ、母が迎えに来て早退。その足で病院へ行くと、思っていた通り水疱瘡だった。そんなこんなで、晴れて私は体育祭を棄権することに成功したのである。
しかし問題はこの後だった。小学校生の時に、自然と発生する水疱瘡やおたふく風邪の集団感染。母はそれに乗じて水疱瘡もおたふく風邪もかかってしまえ!とどちらの予防接種も私に受けさせていなかった。その思惑通り、当時小学生の私は、見事におたふく風邪"だけ"にかかった。その時家にいた、まだ小さかった弟はずっと私と同じ空間にいたにも関わらず、おたふく風邪にはかからなかった。
そして、中学に上がり、体育祭の練習が始まる前か始まった頃に、小学2年生だった弟は学校の集団感染で水疱瘡にかかった。水疱瘡にかかっていなかった私としては、どうにかして学校を、体育祭の練習を休みたかったのもあり、うつらないかなーなんて言っていた。それは母も思っていたようで、理由は違えど、なるべく小さい子供の時にかかっといた方が良いから、今かかれば後々辛い思いやまだかかっていないという怖い思いをしないでも良いようにと、2人して念じていた。
結局、私はかからなかったわけだが、菌だけはちゃんとうつっていたようだ。
まぁ、そのお陰で、パッと見、この世の者ではないような風貌に一時なり、かなり辛い思いをしたのだが、高熱で死ぬこともなく治った(まだ水疱の痕は残ってはいるが)ので良しとする。
それから先は、不登校+登校拒否だったので、書くことはない。結局、修学旅行も卒業式ですら出ていない。
中学時代、登校しなくなってからは、そりゃもう暗かった。
今みたいに親の理解が一切なかったから、親は学校に行けと煩いし、鬱状態で、無気力だった。話しかけても無反応という状態で、生気が感じられなかったらしい。
そんな状態が続いた後、中学生時代は終わった。

そして、現在。
私は高校3年生で、相変わらず学校も勉強も大嫌いだけれど、毎日行っても行かなくても良い、最低スクーリングだけに行けばいいというのもあって、気楽にしている。

………のだけれど。

問題はこれから。
状況確認。私、今3年。
卒業したら、いよいよニート。
どうすりゃ良いのかわからない。
考えれば考えるほど、ぐるぐるして。



あれ?夢の話は??

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